2016年12月13日

イスラム教 モハメッド エドアルドマイヤー著開かれた言葉



開かれた言葉 1988年発刊 エドアルドマイヤー著 絶版
この書は主にキリスト教の殺人的礼拝宗教・邪悪性について、書かれた書籍です。

開かれた言葉 P1
キリスト教信仰は、完全な虚偽、空想の歴史、残忍な教義、逆説である書に基づいています。
この書は聖書と呼ばれていますが、クアランを基にして構成されていることは良く知られています。
これはイスラム教の宗教書で、コーランと言う名称でもよく知られています。
この宗教書は、イスラム教創設者の目的のために都合良く曲解され、信仰と憎しみ、殺人、残虐行為
その他のために民の間に適用されたのでした。
コーランと同様に、聖書の中でも創造は擬人化され、男性形で表現されています。
以下
モハメッドに関する部分のみ抜粋

宗教、人間の創造力による生産物の一部
P72~74
イスラム教の設立者であるモハメッドの教えも、最初は突飛で非常識、言語道断に思われたに違いありません。
モハメッドは異邦人、ユダヤ人、仏教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒等に、アラーの比類無き偉大さのみが正しいことを
信じ込ませたのでした。
その時、このアラーの偉大さと比類無さは、全くのでっち上げであることは、彼以外誰も知りませんでした。
それは今にも血生臭い礼拝宗教に押しつぶされ、破壊されそうになっていた地球人類を救おうと言う目的でなされたのでした。
そうしたモハメッドの策略は、その様な形で処置しなければならない事が、認められていたことを物語っています。
何故なら、こうして予定された処置のみが、当時圧倒的に支配していた血と憎しみの宗教が、僅か数百年も経たない内に
全地球人を嘘八百で完全に盲目にし、恐ろしい宗教戦争によって、人類が無慈悲にも自滅してしまうほどに、蔓延しない処置で
あったのでした。
こうしてモハメッドが登場し、彼はその独特の方法と主義に反する処置を取り、新しい礼拝宗教を設立したのでした。
それは他の全ての宗教に刺激を加えるものでしたが、残念ながらそれは、唯非常に困難な戦いによってのみ成就することが
出来たのでした。
こうした処置行動が、来る1500年の内に、地球人が血生臭い礼拝宗教によって、人間独自の意志と思考脳力をすっかり失くす
ような隷属状態にならない防波堤になったのでした。
又それは、異端尋問で地球人の半分がキリスト教の狂気によって虐殺されないようにすることを保証したのでした。
カトリック教会によって、たったの「900万人(実際はその倍数値が記録されている)」が無実の罪により虐殺されたからです。
又モハメッドの教えは、あらゆる礼拝宗教の持つ殺人的礼拝宗教法則が、次第に人道的になり、地球人が自分の思考と独自の力で
自ら決断できるようになり、礼拝宗教から解放され、真の真理に取り組む力を再び得ることが出来ることを用意したのでした。
モハメッドは大詐欺師でした。
しかし彼の大詐欺師精神は、血生臭い礼拝宗教による完全な滅亡と破壊から、地球人を救う為に予定されたものであったのでした。
そしてそれを彼は見事に成功させたのでした。
残念ながらここには、純粋に地球人的制限を持った、まだ一度も計画されたことのない、事件に導く問題が関与しているのです。
しかしここでも、イマヌエルと同じように、こうした出来事は当事者(モハメッド)の死後、初めて判明したのです。
そうすることによりモハメッドは、或る問題について責任を負う必要がなかったのです。
彼は大山師、詐欺師であるにも拘わらず、預言者としてその使命を果たし、真に尊敬に値する人であったのです。
イマヌエルや他の預言者もそうでありましたが、モハメッドの教えが偽造されたことに対する責任を、彼は一切負わないのです。
又今日コーランは、その行の全てが、モハメッドが口述筆記させた通りのものあると主張することは間違っています。
モハメッドは、今日圧倒的に誤って解釈されているコーランの責任者ではありません。
何故なら、誤った解釈は、後にイスラム教の利益のために強奪した人々、特にカリフ(モハメッドの後継者とされるイスラム教徒の
支配者の称号)による、誤った解釈、説明による作品であるからです。
こうした全く意識的に歪められた注釈により、コーランの意義も偽造されてしまいました。
それはモハメッドがその民をだまし、(これは常に宗教創立者の場合にあてはまることですが)モハメッドの民のみが
「選ばれた」民であるかのような印象をあたえています。
モハメッドは、表面的には宗教創立者でありましたが、地球人が礼拝宗教によって自業自得の破滅に陥るのを救う為に
完全に予定された人物であったのでした。この使命に答えるために、彼は論理的暴力に訴える手段を取らなければならなかったのでした。
それは地球人には、理解するのが困難であり、言語道断に思われたのでした。
更に、モハメッドがイマヌエルの托身(同じ霊)であることを知るなら、もっと言語道断な感じを、地球人は受けるでしょう。

イマヌエルはエレミアの托身であり、エレミアはイザヤの托身であり、イザヤはエリアの托身であり、エリアの本来的生得の預言者の
起源はエノクにありました。モハメッドは、イスラム教の設立者である故に話題になりましたが、彼を地球上の普通の宗教設立者と同じ地位に
置いてはならないのです。こうした形は、地球人を救う為に、前以てモハメッドに予定されていた「摂理」であったのでした。
そしてそれは見事に成功し、それ以外の何の目的も無いものでした。
そうでありますから、モハメッドはありふれた低俗な宗教設立者と同様に扱われてはならず、苦境における真の救い主と称される事が出来るのです。
その当時、彼は全く地球人として重大な任務を持ち、それを成就した人物であったからです。
モハメッドは多くの点で、大部分知っている創造の真理に反し、彼の知識と能力に反する宗教を達成しなければならなかったのでした。
何という創造に対する深い畏敬の念、何という地球人に対する深い愛が、モハメッドに求められたことでしょうか。
彼はその苦しみを全く一人で引き受け、背負ったのでした。
このことは地球人には全く理解されないでしょう。
何故なら、人間にはこれに関した理解と可能性が欠けているからです。
これはイマヌエルが不屈にも背負った、彼の人生と地獄の苦しみーーー人間の愛と幸福のためにーー
に関する理解と可能性が人間に欠けていることと同様です。

関連ウエブサイト
ビリー・エドゥアルト・マイヤー ウィキペディア




  


2016年12月19日

宗教文化 開かれた言葉 ビリーマイヤー著


開かれた言葉 ビリーマイヤー著
宗教文化
P76~77

最も良く知られている宗教をじっくり観察してみると、イスラム教、ヒンズー教、仏教が、文化的に最も遅れていることを確信出来ます。
ある宗教や宗派が、しばしば大きな性的好色を露にしていることはともかく、他のある特定の宗教的規則は、必ず
その利点を備えているのです。その際、特にここではイスラム教が上げられます。
それは、非常に几帳面すぎる身体的手入れを規定しています。
(1日に5回身体を洗う。少なくとも金曜日ごとに入浴する。その他必要な衛生的規定が述べられています。)
これについては、文化と全く関係がないとも言えるのですが、そうでもないのです。
何故なら、手入れの行き届いた衛生も、優れた文化的領域に属するからです。
誠に文化とは、霊的進化と人間存在の進化の上に築かれた、ある特定の霊的指導要綱が取られた時に、初めて実現するのです。
さて、宗教的に発展した狂気や倒錯の中に民族が生きていれば、その民族は自動的に全生涯の進化を見過ごしてしまうのであり
生活水準に応じた発展を見失ってしまうのです。
これは上記の宗教において、論争の余地のないものです。
しかし、イスラム教については、次のことが注意されます。
つまり、イスラム教の欠陥は、モハメッドにより、もたらされ、説かれたものではなく、彼の死後、その教えの中に
誘導されたものであると言う事です。キリスト教も同じであります。
又キリスト教の中に、ついに改良の変化が起こったとしても、キリスト教の功労ではないのです。
何故ならこの改善は、あらゆる礼拝宗教と関係無き人や、そうした信仰に囚われているキリスト関係者を感化させられる人々による
唯一の勇気と率先に、徹底して導かれたものであるからです。そうした人々の数は少なくないのです。
何故なら、約55年間におけるだけでも(1924~1978年)キリスト教宗教は約38%の信者を失っているからです。
特にヨーロッパにおいては、スイス、スエーデン、ドイツ)、又アメリカ、ソ連においても、そうなのです。
キリスト教が、まだ決定的な影響を持っている国々(イタりア、スペイン、ギリシャ、ブラジル、エクアドル、チリ
ボリビア、インド、英国、南アフリカ等)でも、その後退は酷いものです。
又メキシコやキリスト教精神にまだかなり強く支配されている多くの国々についても、それが言えます。

礼拝宗教設立者によって定められた法律は、ずっと昔から執拗に時代に迎合しなければならない為にしばしば修正され、百年程度も
存続することはない事が判明しています。
欠点に溢れ、非論理的な法則ーーそれらは知識の点で不十分な、人間の手による作り事に過ぎず、決して創造による告示ではないのです。
創造による規則、法則、掟は、昔からーー46兆年前に、初源の創造より、自ずと創造が誕生し、宇宙が創造された初めより、今日もなお
永遠の無限に至るまで変わらず、論理的で誤りがありません。
イスラム教の法則でさえも、その擁護者により誤り無いと見なされているにも拘わらず、それは古臭く完全な非論理と邪悪なごまかしの上に
築かれているのです。
確かにイスラム教は、その起源において、最も真理を含んだ宗教の一つであったのですが、いつの間にかそうではなくなったのです。
それはモハメッドの書記が、その教えを任意に解釈し、偽造してしまったことに拠ります。
そうして地上の礼拝宗教がそうであるように、それからもう一つの礼拝宗教が出来上がったのでした。
権力欲を求めるユダヤ教やキリスト教の蔓延を防ぐ為に生まれたイスラム教も、今日では礼拝的出鱈目に陥った他の教団と同じく
人間的で欠点のあるものとなってしまったのです。
過去100年に起きた事件が、十分にそれを証明しています。
完全に異なった習慣のもとに成長した後の世代の人々は、新しい人間の法則と変遷した生活法や生活形態に自然と慣れ、
所与の礼拝宗教の掟と法則を守る脳力も無くなり、そして彼らは、偽善者とか暴徒、宗教的背教者、異端者となったのでした。
いずれの礼拝宗教も、その成立過程において、今日に至るまで、その教義、法、掟、総合的指導要綱を絶えず変化させていったのでした。
このことに例外はありませんでした。
いわゆる「神の」掟は、全く単純に変更され、除外され、都合良く研磨されたのでした。
何故なら、生命を維持させるために、、新時代は別の新しい法則を必要としており、人間生命体がその知識、
把握、理解、悟性において絶えず生長を続け、より多くの知識を得た存在に変わっているからです。
そうして人間は、まだ初期の時代に未教育のまま信仰に依存し、誤った信仰を持った人々の前に、糧として投げ掛けた馬鹿げた
作り話を、最早そう簡単に信じることはしなくなったからです。
今日地球人はかなり進んだ教育を受け、科学分野の凄まじい研究成果により、昔なら、同様に神の力の領域に入っていた事柄
行動、可能性を科学的に証明したのでした。

以上。
宗教の衰退が激しいようです。地球上に最早、非論理的、原始的宗教は必要はない。

大量に売りに出される欧州の教会―信者の減少で 2015 年 1 月 5 日
http://jp.wsj.com/articles/SB10441675140911724742004580380423474325784 より

オランダのアーネムにそびえ立つ古い教会はスケートホールに変わった。
何百もの教会が、信徒の減少により閉鎖されたり閉鎖の危機にさらされている。キリスト教の信者の減少は西欧全域で、地元のコミュニティ(地域社会)のみならず、各国政府に対しても問題を突き付けている。かつては神聖だったが、今は空っぽになってしまった教会の建物をどうすべきかという問題だ。それは、英国からデンマークに至るまで、さまざまな国の地方で目立ち始めている。
転載終了。

http://online.sbcr.jp/2015/12/004150_2.html より
2015年12月3日
止まらない日本の新宗教の衰退
もう一つ、生長の家について注目しておかなければならないのは、海外における発展である。
 中心はブラジルで、戦前から生長の家は進出していたが、戦後、戦争に敗れることで日系のブラジル移民の民族的なアイデンティティーが脅かされると、敗戦を正当化する生長の家の教えが広く受け入れられるようになる。とくに1960年代に入ると、ブラジルで積極的な布教活動を展開し、国内をはるかに越える250万人の信者を獲得する。北杜市の現在の本部が、国際本部を名乗っているのも、このことが関係している。

 しかし、時代は大きく変わっていった。
 やがて昭和の時代も終わり、谷口が信仰の対象としてきた昭和天皇は亡くなり、ベルリンの壁崩壊によってソ連が消滅し、冷戦構造に終焉がもたらされた。
 そうなれば、生長の家や生長の家政治連合が、右派の旗頭として活躍する余地はなくなる。すでにこの時点で、生長の家の衰退は決まっていたことになる。
止まらない日本の宗教衰退
生長の家が衰退し、PL教団も衰退している。天理教も立正佼成会も、そして霊友会も信者の数は減っている。
 しかも、衰退の勢いはかなり激しい。
転載終了。

  


2016年12月21日

創造 開かれた言葉 エドアルドマイヤー著


開かれた言葉 P61 エドアルドマイヤー著

創造
創造とは、創造を意味し、主たる神ではありません。
創造は、宇宙と万有生命に対して責任を持っています。
創造は、人間がただ想像できるに過ぎない初源の威力であり、最大の力であります。
創造は無であり、有体生命であります。
創造は莫大のエネルギー量であり、ただそれを与えることが出来ます。
創造は純粋の霊体であり、その知識と知恵と愛において計り知れません。
創造は最も完全なるものでありますが、それは絶え間なく更に自ら完全にならねばなりません。
人間はそのことを識別し、又は識別していると思っています。
創造は絶えず新たな小さな霊魂を創造します。それは霊体と成って人間の中に住み
人間を生かします。
この創造の一部である人間の霊は、次のようにしてその使命を成就します。
即ち霊は、数えきれぬ再生を通して、創造自体と同じように滞ること無く成長を続け、最後には完全に達します。
こうして数えきれぬ生命を経て、計り知れぬ知恵が集積される時、
霊は再び創造に戻り、創造と一体になります。
そして創造自体は、更に完全となり、その全能において、更に強力で計り知れぬものと成ります。
人間の霊はその初めにおいて、完全に無知であり眠っていますから、霊はゆっくりと知恵と知識を自らの内に蓄え、成長していきます。
この霊は、長い生命期間を経れば経るほど、より賢く、より知識を得ます。
霊的な知識、霊的な知恵のみが、この霊を形作り、又その霊を住まわせている人間を特徴付けます。そのことから次のことが判ります。
人間は人間的に、又世俗的に思考し、処置すればする程、霊において進化が遅れているという事です。
何故なら、人間的世俗的思考とは、その人間が霊的進化段階において、再生体験が少ない、低次元的位置にいることを意味しているからです。
一般的には、大部分の人間がーー官庁、政府、礼拝宗教によりーー全く意識的にこの地位に固定されています。
それは彼ら自身が決して啓蒙されず、それによって人間が奴隷化され、抑圧されやすいからです。
最も邪悪な人間は、宗教や無数の宗派を作り、その点で人間の意識、自信を虫食み、空想上の神に誤った依存の行動をとらせています。
神は創造ではありません。神は人間の霊的生活に何ら影響を及ぼしません。
論理的に真理を認識出来る人には、このことが判るのです。
神は人間です。そのことはイマヌエル自身も、その教義を宣教していた時に、
既に述べていたことです。
しかし、その教義とは、イマヌエルの実際の教義のことで、新約聖書に記載されている教えではありません。
実際の教えとは、タルムードイマヌエルに見られる教えのことで、当時イマヌエルの使徒によって
書かれたその教えは4章38~44節に説明されています。

38章 貴方は誤解され否定されます。何故なら、人類は無知で、迷信に陥っているからです。
39章 彼らは、神が創造そのものであるかのよう信じ、天使達と地球人のみの支配者であることを信じてはいません。
40章 地球人は神に創造の全能をなすりつけ、神を創造そのものにして賛美しています。
41章 しかし神は、全ての天使達や人類と同じ人間であり、霊的に彼等より途方もなく偉大であるに過ぎません。
42章 従って創造は、天使達や主である神より計り知れぬ程高い位置にあります。何故なら創造は、計り知れぬ謎であるからです。
43章 又彼らは、イマヌエル、貴方を神とその一人子として罵り、又謎に満ちた創造と同格に扱っています。
44章 しかし、こうした誤った教義に注意しなくてはなりません。何故なら、人類の子達が真理を知るまでには何千年もかかるからです。
続く。



  
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2016年12月24日

創造 2 開かれた言葉 ビリーマイヤー氏



開かれた言葉 P62
創造 前回の続き

神という名称は、霊的に皇帝や王の上に立つ者と言う人間的表現に過ぎません。
神と言う名称には、リラ星人の言語に従って訳すと、「知恵の王」と言う意味に他なりません。
一方創造は、イービ(JIWI)と言う名称で表現されています。
神は、古代リラ星人の言語によると、ヤーウエ(JHWH)と書かれ、イシュビシュ(ISCHWISCH)と話されていました。
古代のジプシー族=ヘブライ人は、この名状しがたき神の名を9つのアルファベットに相当すると解説し、公言していました。
イマヌエルの真実の言葉と教えは、「聖書」の中には一切見出されません。
それらは聖書記述者や宗教代理人達の独自の利益の為に偽造され、ごまかしの再生が為されたのでした。
彼等は、真理が必然的に教会の持つ宗教イメージを破壊することを心配したのでした。
ですから彼等は、聖書を偽造する以外に手だてが無かったのです。
同じことは、大部分の他の宗教ても当てはまります。
宗教は空想上の神格や神の存在を用いて跳梁跋扈しています。
人間が正しく思考し、知識を得れば、唯一創造のみを、唯一の力、唯一の源として認識する能力を持つのです。
創造は、人間の概念に拠れば、本来神と呼ばれねばならず、神と言う名称は、人間に取って創造を具現するはずのものでした。
しかし人間は、神の名称を霊的能力の高い地位に居る人間の称号に使い、超人=神と言う言葉は、もはや創造の名称には
相応しいものでは無くなったのでした。
従って、創造の名称は、単に創造であり、古代リラ星人の言語で書記され、呼ばれていたようにイービーと言うのです。
創造とは最も荘厳なもの、一切の上に立つものです。
創造だけが、人間に創造として注目され、評価され、尊とばれ、認知されるに、絶対的に相応しいものなのです。
礼拝宗教がしているように、偶像や神を崇拝し祈祷することは、自然に反し、礼拝宗教の教えに従って行動する者は、
意識的に自然と創造の法則に反しており、全く意識的に霊的完成の為の進化の道、霊的意識、霊的創造の知恵の道を妨げる者です。

  


2016年12月29日

開かれた言葉 タルムード・イマヌエル エドアルドマイヤー著


開かれた言葉
P78~79 エドアルドマイヤー著
タルムード・イマヌエル

真理に関して、疑いなく最も価値に富んだ真実の教えの書物であり、創造と神に関しても、前に述べられている全主張の基礎を築いているものとして重要です。タルムード教義を学習する際に、預言と結びの言葉がそれぞれ異なった時代に書かれていることに注意して下さい。
つまり最初の章の翻訳は1969年に始まり、最後の章が翻訳されたのは1974年となっています。
本来の新約聖書が真理に基づいたものであるのなら、タルムード・イマヌエルが聖書になるべきなのですが、残念ながら新約聖書は誤っていますので、徹底的に比較検討する必要が有ります。
それによって、無責任な礼拝宗教狂信者や邪教の創案者によって、如何に真理が偽造されたか、又、キリスト教礼拝宗教とそれに従属するセクト宗派が、それを如何に低俗に利用してきたかが判ります。

イマヌエルが十字架にかけられてから200年後に新約聖書が書かれ、既にその当時伝説的な空想、嘘、偽造、狂気の奇跡でぎっしり詰まっていたことは、明らかに途方もないスケールの邪教であり、最も愚者中の愚者、最も狂気中の狂気の者ですら、その礼拝宗教の聖書の正真性を疑う事ができるでしょう。
しかし信仰とは、周知のごとく人間を盲目にします。
真理と現実は、聖書が主張しているものとは全く異なった外観を呈しているという事を、既に認識している人々に取っては周知の聖書が、何という出鱈目に覆われたものかと思われるに違いありません。
又、真実のタルムード・イマヌエルを知り、イマヌエルと言う人物が非常に知恵が有り、正しい人で、完全な愛と真理、論理、知識に富んでおり、決して自らを神の子とか、創造と同じ位置に置かなかったこと、そのような狂気の誤った信仰を決して広めることは無かった事を知る人々に取って、善聖書、特に新約聖書は愚かしい馬鹿げたものに見えるに違いありません。

キリスト教礼拝宗教が今日なお全く無責任に行っていることを、この偉大な人なら決してそれを一度も行うことは無かったでしょう。

イマヌエルの教えの趣旨は、人間は人間そのものに返り、真理に関する完全な知識を持ち、創造のみを最も高く偉大なものとして認識し礼拝宗教、信仰、謙虚、賞賛する崇拝、その他の形を取らないようにと言うものです。

イマヌエル自身は、断固として全ての礼拝宗教を禁じ、又公然と、礼拝宗教に対して自衛したのです。
大いなる告知によって、率直人々にもたらしたイマヌエルの教えは、明らかにあらゆる礼拝宗教の信仰と礼拝宗教に反対する意見を述べています。それは人間に不自由、隷属状態、搾取、物質的意識の白痴化のみをもたらすものなのです。

イマヌエルは明らかに、そうしてはならないことを説明したのでした。
信仰と礼拝宗教により、霊的停滞と物質的意識の白痴化の中に生き、非良心的な礼拝宗教とその代理人と信者の力に拠り、抑圧され、搾取され、無理矢理愚鈍にされ、地獄に落とされるのです。
信者や神の代理人達は、その権力欲と信仰の愚鈍さによって、想像上の神を布告し、無意味にそれを崇拝しているのです。
イマヌエルは生存中、礼拝宗教の狂信的嘘を立証させ、地球人に明らかにさせ、真理を教えようと努力したのでした。
しかしこの教えは、慣例通り、盲目の信者にとって革命的響きを持ち、礼拝宗教に取っては致命的なものと成ったのでした。
そして今日も尚そうであるように、当時イマヌエルも礼拝宗教の「真理のために」迫害され、嘘つきとレッテルを貼られたのでした。
イマヌエルのみが真実の真理を説き、これを公にする勇気を奮い起こしたただ一人の人でありましたのに。
その為にイマヌエルは迫害され、殺害されることを完全に知っていたのでした。

いつものごとく、当時も礼拝宗教の威力、迷信、狂信的信仰者、付和雷同信仰者、司祭、聖職者、セクト宗派の首謀者は強大であったのでした。
彼等はイマヌエルと真の真理を伝える彼の教えを、あらゆる不潔な手段を用いて破滅しようとし、迫害し、中傷し、彼を拷問したのです。
そして人々は彼を十字架に付け、クギと酢、いばらと槍で更に責め苦を与えたのでした。
そしてイマヌエルが死んだものと推測され、十字架から降ろされ、、冷たい地下の墓所に運ばれ、そこで友人達の介抱により再び健康を回復したのでした。
さてそうしたユダヤ人による嫌悪すべき出来事が行使されたにも拘わらず、又、イマヌエルの真理に関する2000年来の嘘にも拘わらず、
ユダヤ人とキリスト教礼拝宗教からのあらゆる陰謀にも拘わらず、イマヌエルの真の教えは、全てを耐え抜き生き続けたのでした。
そして2000年後に、その言葉は驚くばかりの明確さを持って、真実であることを証明しているのです。
真理はいつも勝利し、時間の経過と共に秘匿されることも無く、いわんや破滅されることも無いのです。
即ち、ここでも諺の真理が認められるのです。
「本当のことは直ぐ表れる。」